ご葬儀なので、ありがたくも「お寺さんに失礼があってはならいので」とお気持ちで、質問をいただくことがあります。
おおよそ、いつお布施を渡したらよいのか、と、失礼でないお布施の金額です。
私の答えから申しますと、いつでも、おいくらでもとなりますが、大抵、その曖昧な答えで困らせてしまっております。
私が失礼だと思うことを考えてみますと、ご葬儀なりご法事なりに僧侶を呼んでお経を上げなくてはとお考えの時点で、大変な仏縁が成就されていることでございますので、僧侶に対することの失礼など、全くないわけでございます。浄土真宗で申しますと、阿弥陀如来が、御参拝の方々の仏縁を願い、前世やその前の命、そのまた前世と、救われてほしいがために願いずめに願っておられたことでございます。そして、人間に生まれなくでは仏法が聞けないので、やっとのことで人間に生まれさせて、やっとの思いで、お経を聞かせていただく身になったことでございます。
その如来のご苦労の成就の時に、何の失礼がございましょうか。共にお経に会えたことを感謝するばかりでございます。
浄土真宗の僧侶にとりましての1番の失礼は、僧侶にもよるかと思いますが、私は、合掌の時に皆様がお念仏を称えてくださらないことです。阿弥陀様に失礼であることに、深く落ち込んでしまいます。これは、私の日々の伝道がいたらない、こちらの至らなさ以外の何者でもなく、無言で合掌される場にあっては、如来に深く懺悔し、自らの使命を改めることでございます。
昨今は僧侶なし、お経の上がらないご葬儀もあるようです。以前はこのようなことはあまりなかったので、この頃の方が、仏縁の尊さがわかりやすくなったと思います。
僧侶を呼びたい、お経を上げてあげなくてはと思われた時点で、大変尊い先祖代々のご家族からのお育てと、如来のご本願の成就がなされていることでございます。その皆様を動かす遠く不可視なるお力の中身を知ることは、簡単なことではないかと存じます。それを素直に受け取りながら生涯をかけて紐解いてゆき、結論の有無に関わらず、次世代にそれを受け継ぐ営み。そのような皆様とお手合わせを共に出来ることは、僧侶として、とても栄誉なことでございます。
目先の失礼をお気にかけていただき、大変、申し訳ないことでございますが、皆様が普通にされていることの、大きさ、貴重さ、尊さを自覚していただき、ともに喜ばせていただきたい、それが私の日頃思っていることでございます。
ただ、私、僧侶に対して失礼ということは、無いのですが、御本尊に対して失礼だと感じることはございます。
一つ目は、本願寺派だけかもしれませんが、僧侶に座布団を勧められることです。阿弥陀如来は立ち尽くめではたらいてくださっています。畳があるだけでありがたいのに、その上、座布団までは不要でございます。参拝者も、この理由を深くいただくことができましたら、座布団は不要となると存じます。
二つ目は、お焼香をする際に、参拝者が僧侶や親族に礼をすることです。本堂内は礼拝の場ですので、親族同士の礼は入堂前に済ませ、御堂内ではどんなに参拝者がいても、阿弥陀如来と一対一の思いで、礼拝のお時間を過ごしていただきたく存じます。あまりにも尊い存在がいらっしゃることを理解されていれば、他の者に礼をすることが失礼にあたると思えてくるはずです。本堂内でお焼香の前後に私に礼をされると、阿弥陀様に大変申し訳ない気持ちになります。如来の尊さを伝えてこなかった自身の至らなさの結果です。
皆様の失礼と思われるところと、こちら思いが全く異なっており恐縮ですが、日々の思うところを書かせていただきました。
長徳寺住職