2022/07/28

平等の姿勢

仏教は命の平等を説きます。


京都にも平等院鳳凰堂と言われるお堂があるようにとても普通にお経にも出てきます。一般的にも平等は使われますが、仏教の平等は修行の末に開ける仏様の物の見え方、というくらい、そんなに簡単に得られるものではないので、やはり、一般の平等は、仏法からすると不完全といわないといけません。


お釈迦様の特徴として、、、物事に対する姿勢として完璧主義というものがあると私は思います。常に経典にも、涅槃にも肉体がある涅槃、肉体がない涅槃、など完全なもの以外は、完全ではないですよと、しっかりと定義します。それなので、平等といった場合、完全な平等でない場合は、「現時点の人間の知恵を絞った上での平等」のようなものが、世の中の平等ということになり、この言葉を使う人は、加害者であろうが被害者であろうが、どちらに立っていても、不完全な平等しか考えが至らない自分自身を忘れずにこの言葉を使わなくてはなりません。


本当の平等というのは仏様にしか、持ち得ないという考え方をする気がします。私たちが用いる平等は、立場なりの時代なりの、、それなりの平等です。常に定義の大前提はここの部分であり、完全な理解ができない自信をわすれないようにすることが仏教的な姿勢であり、それが真実であり、誠実な態度であると思います。

私はたまに境内の掃除をします。樹齢何年の木を伐採したりするときは、何日も何年も考えて伐採することもあります。他方、雑草はそこまでは考えずにさっさと抜いてしまいます。何年も時間を共にした犬が死んでしまうのはとても悲しかったですが、焼き鳥はパクパク、いただいてしまいます。ここには、これだから自分の生き方はいいんだ、とか正当化する要素はどこにもなくて、やはり手を合わせて、このような自分が生きながらえさせていただくことに、懺悔と感謝をしながら、生きてゆくしか他はないのです。仏法は自己を正当化するものでも、力強くいきてゆくためのものでもないような気がします。まことの我が身を知らせてくださる教えです。

仏教であるといことは、教えや言葉の意味を頭で知識として理解できればよい、ということではないのです。理解しようとする自分がまず、仏法を理解するに値する能力を持ち合わせておりませんという、人に言えないような深い反省のもとにあり、そのような自分が仏法で出会えた喜びと共に教えに向き合います。

この境地は、知識でも努力でもなく、唯、ご縁としかいうほかないのですが、寺の住職をしていながら、どうしたら、皆様をこのような仏法のお心にお連れしたらいいのか、私は方法がまだわかりません。きっと、この文章を読んだ方の中には、上から目線とか、教えや理論で威圧されたような気持ちになったかたもいるかと思います。それなので、この頃、檀家様への法話を文章にすることに対して躊躇していまいます。気持ちを文章にしても、文章がそのようにならなくて、親鸞聖人のお心がただ、えらそうに綴られている、親鸞聖人のお邪魔をしてしまうような文章しか、まだ書けないのです。

親鸞聖人は正信偈の最後に「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」と仰います。長い教えのあとに「さあ、さあ、ここにいるみなさんが心を同じくして、ただ高僧の教えを、親鸞とともに信じましょうね」とやさしく仰っていただいているようで、教えを押し付けることもない親鸞聖人のお心にとても安堵してしまいます。朝の勤行でもそう感じますし、また、この頃は葬儀においてお一人で浄土に旅立たれるかたを前にして正信偈を終えるとき、この最後の二行がとても心強く感じます。正信偈は繰り返し繰り返し、阿弥陀如来という仏様がここにいらっしゃいます、そのようなことがあっても大丈夫ですよ、安心してくださいね、この菩薩はこう仰ってますよ、この高僧はこう仰ってますよ、だからあなたは救われているのですよ、とやさしく親鸞聖人が幾重にも幾重にもお話くださるお経です。その最後の二行、親鸞聖人が、読経を聞かれているご遺族を、「時衆」という言葉でしっかりと巻き込んで「最後になりますが、ここにいるお子様もお孫様も同じ教えを聞いて同じ心で手を合わせてらっしゃいますよ、安心してお浄土にお参りくださいね」と仰ってくださっていると私はいただいております。えらい僧侶がこのように説いていますだけでは、故人は安心しきれなくて、それをご家族も敬意をもって大切にされていることに何よりの御安心を感じるのでないかと思います。そして、これを人生の最後に当たって、あなた様に親鸞聖人のお心をみなさまとともにお伝えできて本当によかったと思うのです。仏法が、みなさまのうちにある領域を問うているというニュアンスを、親鸞聖人のこの最後の言葉に私は感じるのです。

長徳寺は、親鸞聖人のひらかれた、浄土真宗の寺なので、この生き方はお念仏に集約されることであります。お念仏によって、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と手を合わせることによって、私はこのようなことを考えています。

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