2013/12/10

「信罪福心」というこころ

住職です。先日、友人の結婚式があり、久しぶりに級友と語らいました。だんだんと友人たちも教えを伝えるということの難しさややりがいを感じているようでした。

それは私自身も日々感じていることで、仏教を学ぶと生き方が楽になるのです。しかしながら、天動説・地動説と同じで起こっていることは何も変わるわけではありません。世の中と自身の見方が変わる、と言ってしまえば、あらゆる啓蒙書や思想でうたっていることなのですが、その奥深さ、そしてその教えが本当に私自身のことを思ってくれているというあたたかさがあります。それを説法で伝えること、ニュアンスを表現することが難しく、友人たちも頭を悩ませていました。

いま読んでいる本は、内藤知康先生「安心論題学ぶ」(本願寺出版社 2004)です。その中で仏教ってあたたかいなぁと感じた文がありました。

「信罪福心」という語句の説明です。(45ページ)
つまり、自らの行う悪は罪となってお浄土に生まれることを妨げ、自らの行う善は福となってお浄土に生まれるのに役立つ、と信じる心が信罪福心です。
言い換えますと、罪を信じるとは、自らの行う悪つまり罪の力(迷いの世界にしばりつける力)の方がご本願の力より強いと信じることであり、 
また、福を信じるとは、ご本願の力が百パーセント完全な力ではなく、自らの行う善つまり福の力を付け加えてそれを役立たせないとお浄土に生まれることはできないと信じることであります。 

親鸞聖人は、「疑心」=「自力心」=「信罪福心」とお示しになり、多くの著述でそれを嘆いておられます。

「自分の罪を信じる」ということをこのように説くところに、阿弥陀如来の包容力の大きさを感じます。私が阿弥陀如来のお心がそうだったのか、とわかったときの中身、常日頃、私が伝えたいと思うあたたかさのニュアンスはこのようなことです。極限の反省をしたとしても、それではだめだと諭される。しかしながら、そのお諭しは反省の深さや方法という次元では全くないものなのです。これが善に関しても説かれるところが、どきっとさせられるところです。

中道思想、無我思想、自灯明・法灯明、如実知見など、仏教学の解釈の範疇ではこのニュアンスは感じることができないと思います。お釈迦様が、親鸞聖人がどれだけ、このわたしのことをお考えになっていらっしゃるか。それが時間を超えて届いていいる実感があるのです。

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