2013/05/30

春の法要 ご門主のご法話です


 本願寺恒例の立教開宗記念法要(春の法要)が4月13日から15日まで御影堂で営まれ、全国各地から1万3000人が参拝しました。西本願寺の住職であられる大谷光真ご門主が15日に述べられたご親教(法話)を全文掲載します。

 今年も皆様とご一緒に、立教開宗記念法要をおつとめできました。立教開宗とは、親鸞聖人が関東、今の茨城県で『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という書物を執筆され、浄土真宗という教えを確立し、独自の道を歩み始められたことをいいます。

 その教えの骨子は、阿弥陀如来のはたらきが、往相(おうそう)、お浄土に往く姿と、還相(げんそう)、浄土からこの世に還ってくる姿となること。お浄土に往かせてくださるのはたらきは、教(大無量寿経の教え)、行(南無阿弥陀仏)、信(他力の信心)、証(仏のさとり)として与えられることです。

 その要点は、先ほどお唱えしました和訳正信偈の中に、

「浄土にうまるる、因も果も 往くも還るも 他力ぞと ただ信心をすすめけり」

とありましたように、私は、阿弥陀如来のはたらきである他力によって信心をめぐまれ、往生成仏(おうじょうじょうぶつ)させていただくのです。

 大事な点は、今、ここに信心をめぐまれたことにより、往生が定まること。往生浄土の道を歩み身となることです。それはお念仏申しながら、この世のさまざまの課題を担い、それに応(こた)える人生です。

 近年の大小の出来事を思いますと、この世の課題に応えるといっても、なかなか難しいことがわかります。

 突き詰めて考えますと、凡夫(ぼんぶ)は何一つ善い行いができないのだから、ただ阿弥陀如来におまかせするばかりとなります。自分の力ではどうしようもない苦難にあったとき、阿弥陀如来は私を支え、導くたのもしいはたらきです。私のすべてを受け容(い)れてくださるからです。しかし、往生成仏という目標だけに閉じこもると、仏法と生活とが切り離されてしまいます。

 震災直後の被災者に、生活の手助けをせずにただ仏法だけを説いても、受け容れられません。日常生活で、どうせ善いことはできないのだから、何をしても、何をしなくても同じだということになれば、自分の欲望に歯止めがなくなったり、社会の現状をそのまま認めて、苦しむ人々のことを考えなくなったりします。それでは、往生成仏と自分中心の私利私欲との区別が曖昧になります。

 仏さまのおさとり、成仏とは、今さえよければとか、自分さえよければ、仲間さえよければという自己中心的な在(あ)り方が転じられて、差別なく物事を知る智慧と、他の生きとし生けるものを救うという慈悲(じひ)のはたらきを得ることです。ですから、仏法を学ぶことは、仏さまから隔(へだ)たった私の姿を知らされることであり、だからこそ、仏になるという指針、目標を持つのです。

 この世の生活には、絶対に正しいということはありませんし、時代と共に善悪の基準が変わることもあります。その中で、仏法を基準に、時や所で変わることのないよりよい道、一時的な慰めではない根本的な解決を求めてゆくことが、仏教徒の生活といえましょう。往生浄土のために役立てるのではなくて、この世を生きる上での願いです。

 残念ながら立派な目標を立てても、簡単に実現しないのが凡夫(ぼんぶ)の私です。それでも、阿弥陀如来が支えていてくださる、受け容れてくださるという安心から、精いっぱい精進、努力することでありましょう。

 凡夫(ぼんぶ)という自覚は、言い訳の言葉ではありません。「ともにこれ凡夫」として、自分を認め、他人を認め、支え合いたいものです。

 立教開宗の趣旨を思いつつ、お念仏の日々を過ごさせていただきましょう。

『大乗』平成25年6月号(大乗刊行会刊)より